2017年06月27日

【私の履歴書】@YKK 実業団時代 と ボクシング

高校時代に陸上部に所属しており5,000mと3,000m障害を専門で競技していた。
全国的には無名でインターハイにも出れなかったが、宮城県内では1年生の時からちょこちょこ上位入賞をしていた事、高校の先輩達が強く仙台市以北では駅伝で無敵だった影響から私も名ばかり売れ、お陰で3年時にYKK(長距離部)から声をかけて頂いた。

ライバル達は東京に行き箱根を目指すとの事。
私はどこの大学からも声が掛からなかったし通用しない事も知っていた。
東北での実業団はNECトーキンとYKKのみの中、その片方から声が掛かったのは光栄。
例え陸上部を退部した後でもYKKはブランドだから安泰。
30歳で引退し普通に結婚し安定感ある生活が送れると見込み悩む事無く入社を決めた。
(今思えば大学くらい出ておけば良かった..)

同期は3人。
同じく県内のライバル達。
先輩の方々も東北では超有名な選手ばかりで一緒に走れる事を光栄に思ったのを覚えている。

私は高校駅伝が終わってから1mも走ってなかったので、いきなりの5,000m走で16分切れずドベ。
それでも社会人になり車も買い、毎日が新鮮で楽しく陸上に3ヶ月間身が入らず焦りなし。

陸上部だからとて普通に働きながら競技をしていたので、キツイ仕事にキツイ練習で夏には体重が55kgまで減り、体脂肪率も7%まで落ちた。
毎日20km程度走っていたし、たまの息抜きは1人でドライブ。彼女もおらず真面目そのもの、至って健全。
徐々にだが、陸上する環境が整いだし気持ちも強くなっていった。

そんな環境だったから自ずとタイムが良くなり夏には先輩達に着いて行けるようになり、秋には5,000mで14分台がポンポン出るまで伸び、ローカル大会では先輩選手と入賞を争った。

ただこの時の監督の選択は変わっていた。
3,000m障害の国対予選に私を選ばれず、自部署の同期で友人の選手(部下)をエントリー。
実業団駅伝でも選考会(5,000mTT)で圧倒した私を選ばす、その同期の友人。

屈辱的だった。
陸上部全員の前で号泣した。

初年度に補欠なら陸上を辞めよう。
10,000mで30分切れないなら辞めよう。
翌年に初開催される仙台ハーフが控えていたが、気持ちが完全に切れていた。

今考えれば勿体ない位だが、若い自分の可能性(少ないチャンスの機会)が惜しくなり、時間も大事にしたかった。

偶然なのか陸上部を辞める匂いを漂わせた瞬間配置展開になり、夜勤をする事になった。
昼夜が反対の生活に慣れなく、ストレスで毎日のように寝ると金縛りにあい、精神的にやられ更に走れなくなった。

活躍を続ける同期ライバル。

YKK入社して1年半。
もう俺は終わったんだと思い、正式に監督に退部届けを出すと「 あっそ。ユニホーム返して。あと今後レース出るときはYKKを名乗らないように。 」当然の事なのだが、冷たく言われると19歳の私は酷く傷付いた。

相当クサリながらも、お世話になった先輩にもその旨を報告するとビンタされた。

次のアテもなければ、両親にも相談もしていない状況だったが、その日に退社届けを出し呆気なく受理された。

「 なんだったんだろう...。俺の2年間。貴重な時間。 」
大学に行かずYKKに入った事を死ぬ程後悔した。
陸上部辞めた後も頑張って職場に残ってとしてもライン工として何年勤められるのだろう。
当初考えていた安泰/安定だったが、失礼ながらとても一生は出来ないと思った。


その夜、寮で1人ビールを飲みながら偶然見たテレビが 「 鬼塚 vs アルマンド・カストロ戦 」のボクシングの試合。
1992年12月11日だった。

この時の全身にとてつもない衝撃が走る。
「 これだ。鬼塚勝也のようにカッコ良く生きたい。ゼロからもう一度やり直そう。」

何故ボクシングを選んだのか根拠も無いし、ハタチになる自分がゼロからやるのは容易では無いのはわかっていながらも、じっとしていられなかった。
posted by 男澤ヒロキ at 22:34| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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