2017年06月28日

【私の履歴書】Aボクサーになる夢

1992年12月。
陸上を辞めボクサーになると決意した19歳の冬。

だが、突拍子も無く「ボクサーになる」だったのでアテもなければ、情報すら無い。
両親には強く反対されたが、もう既にYKKには退社届けを出していたので、前へ進むしか無かった。

ボクシングマガジンから仙台にボクシングジムがあるのを知り、更にそのジムを経営しているのがホテル瑞鳳と言う仙台市の高級ホテルだと知った。
ホテルに電話すると面談の許可が貰えた。
母親と二人でホテルに行き、ボクサーになりたいので住み込みで働かせて欲しいと、今では信じられないお願いをする。
当然お断りされる。

この時に「 ボクシングやるなら東京に行くべき 」と決める。
もう仙台にボクシングジムが無かったし、陸上部時代の反省から競争力あるフィールドでやらないと井の中の蛙で終わると言う事を思い出す。


次に仙台でアパレルの求人を見つけた。
東京勤務可能。月給30万円。
アパレルと言いながら話を良く聞けば羽毛布団を売る会社だった。
当時手取り13万円の私には信じられないほどの高給に魅力を感じ、研修を受ける事に。

兵庫県相生市の山中の修行寺に連れて行かれ、2週間の研修を受けたがこれが悪徳商法の会社だった。
ヤクザのような幹部社員から逃げる為に深夜もう一人の研修生(土岐市在住で天理高校柔道部OBの方)と脱走。
嘘のような話だが、懐中電灯も無く、真っ暗闇の山中を月明かりと自分の方位感覚だけ頼りに一晩中彷徨いながらなんとか下山した。
他に10名近く研修生が残っていたが、貧そで乏しい食事、何度も繰り返す宣伝文句で皆洗脳されており、逃亡した事を密告され社員が駅で待ち伏せしていた。
それも上手にかわしたが、大阪に到着するまで気が気では無かった。


そうこうしているうちに1993年のお正月を迎える。

東京から叔父が来て、私の突拍子も無い夢に呆れ私と父親に説教をした。
「 家督としての自覚は無いのか。農家を継げ。 」
と言う叔父に父親は
「 自分も若い時に夢があったが、農家継ぐ為に諦めた。博樹には一度でいいから希望を与えたい 」
当時親父は49歳。
私は涙した。

叔父からは25歳までボクシングでダメなら、諦めて農家を継ぐ事を条件に東京に出る事を許される。
( 今でも何故か不明だがこの叔父は偉そうに物を言った。年功序列の時代だったからなのと、男澤家を考えての発言だと思う )


ただ他の親戚も私の情報を知り、明日以降も説得に来るとの事。

その日の夜コソッと実家を出て東京行きのディーゼル汽車に乗った。
勿論東京での充てはない。
現金は3万円。スポーツバック一つ。
外は雪がしんしんと降っていた。
母親が作ったおにぎりを食べながら物凄く寒かったのを覚えている。
posted by 男澤ヒロキ at 13:56| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月27日

【私の履歴書】@YKK 実業団時代 と ボクシング

高校時代に陸上部に所属しており5,000mと3,000m障害を専門で競技していた。
全国的には無名でインターハイにも出れなかったが、宮城県内では1年生の時からちょこちょこ上位入賞をしていた事、高校の先輩達が強く仙台市以北では駅伝で無敵だった影響から私も名ばかり売れ、お陰で3年時にYKK(長距離部)から声をかけて頂いた。

ライバル達は東京に行き箱根を目指すとの事。
私はどこの大学からも声が掛からなかったし通用しない事も知っていた。
東北での実業団はNECトーキンとYKKのみの中、その片方から声が掛かったのは光栄。
例え陸上部を退部した後でもYKKはブランドだから安泰。
30歳で引退し普通に結婚し安定感ある生活が送れると見込み悩む事無く入社を決めた。
(今思えば大学くらい出ておけば良かった..)

同期は3人。
同じく県内のライバル達。
先輩の方々も東北では超有名な選手ばかりで一緒に走れる事を光栄に思ったのを覚えている。

私は高校駅伝が終わってから1mも走ってなかったので、いきなりの5,000m走で16分切れずドベ。
それでも社会人になり車も買い、毎日が新鮮で楽しく陸上に3ヶ月間身が入らず焦りなし。

陸上部だからとて普通に働きながら競技をしていたので、キツイ仕事にキツイ練習で夏には体重が55kgまで減り、体脂肪率も7%まで落ちた。
毎日20km程度走っていたし、たまの息抜きは1人でドライブ。彼女もおらず真面目そのもの、至って健全。
徐々にだが、陸上する環境が整いだし気持ちも強くなっていった。

そんな環境だったから自ずとタイムが良くなり夏には先輩達に着いて行けるようになり、秋には5,000mで14分台がポンポン出るまで伸び、ローカル大会では先輩選手と入賞を争った。

ただこの時の監督の選択は変わっていた。
3,000m障害の国対予選に私を選ばれず、自部署の同期で友人の選手(部下)をエントリー。
実業団駅伝でも選考会(5,000mTT)で圧倒した私を選ばす、その同期の友人。

屈辱的だった。
陸上部全員の前で号泣した。

初年度に補欠なら陸上を辞めよう。
10,000mで30分切れないなら辞めよう。
翌年に初開催される仙台ハーフが控えていたが、気持ちが完全に切れていた。

今考えれば勿体ない位だが、若い自分の可能性(少ないチャンスの機会)が惜しくなり、時間も大事にしたかった。

偶然なのか陸上部を辞める匂いを漂わせた瞬間配置展開になり、夜勤をする事になった。
昼夜が反対の生活に慣れなく、ストレスで毎日のように寝ると金縛りにあい、精神的にやられ更に走れなくなった。

活躍を続ける同期ライバル。

YKK入社して1年半。
もう俺は終わったんだと思い、正式に監督に退部届けを出すと「 あっそ。ユニホーム返して。あと今後レース出るときはYKKを名乗らないように。 」当然の事なのだが、冷たく言われると19歳の私は酷く傷付いた。

相当クサリながらも、お世話になった先輩にもその旨を報告するとビンタされた。

次のアテもなければ、両親にも相談もしていない状況だったが、その日に退社届けを出し呆気なく受理された。

「 なんだったんだろう...。俺の2年間。貴重な時間。 」
大学に行かずYKKに入った事を死ぬ程後悔した。
陸上部辞めた後も頑張って職場に残ってとしてもライン工として何年勤められるのだろう。
当初考えていた安泰/安定だったが、失礼ながらとても一生は出来ないと思った。


その夜、寮で1人ビールを飲みながら偶然見たテレビが 「 鬼塚 vs アルマンド・カストロ戦 」のボクシングの試合。
1992年12月11日だった。

この時の全身にとてつもない衝撃が走る。
「 これだ。鬼塚勝也のようにカッコ良く生きたい。ゼロからもう一度やり直そう。」

何故ボクシングを選んだのか根拠も無いし、ハタチになる自分がゼロからやるのは容易では無いのはわかっていながらも、じっとしていられなかった。
posted by 男澤ヒロキ at 22:34| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月20日

三伏峠

土曜岐阜の百々ヶ峰を21k程ラン後に南アルプスの三伏峠に行った。
到着は19時。午前中のランで脚が疲れており鳥倉から1時間半も掛かってしまった。

6月にしては寒く、ダウン無しでは外に居られない。
おまけにビール500mlを2本飲んだら身体が芯から冷え途中で冬季避難小屋に逃げ込んだ。
やはり山ではウイスキーがいい。
軽いし温まる。
根っからのビール党の私だが、たまにはと思い入れておいたニッカウヰスキーをザックの奥から取り出しロックで飲んだ。
本当はガスも持ってきてホットにすれば最高だったが、それでも奮発して買ったニッカの宮城峡は格別の美味さだった。
強いて言えば星空を眺めなら飲みたかったが、もうそれもいいだろう。

一人宮城峡を飲みながら仙台の事を思い出す。
「 もっと東北の山に行っておけば良かった 」
鳥海山、岩木山、早池峰、そして親父と幼少時に良く登った栗駒山。
仙台を懐かしむが、それでも午前中にランして夕方からアルプスに登れる今の環境は有り難い。

朝4時起床。
 ちょっと二日酔いだし、目的意識も無いので彷徨するようにふらりと烏帽子岳に登る。
登った感触が無い程インパクトが無い。
ただ山頂からの富士山や南アルプス北部がキレイに見えた。
天気は曇りだが、水墨画のようでこれもまた良い。

さてと。今日はどうしようか。
山頂で菓子パンを食べながら、無計画でその場その場で決めて行く今日の緩さを愉しんでいた。

やっぱり一人の登山はいい。

またふらっと小河内岳に登頂。
風が冷たく全く汗をかかなければ呼吸も荒くない。
何のプレッシャーも無く心地良い登山だ。
そのまま悪沢岳まで行こうか悩むが、散歩にしてはちょっと遠い。気も抜けている。
そんな気持ちだと事故を起こすので、また三伏峠まで戻る。
戻っている最中に今日行われている乗鞍天空マラソンを思い出し、今行けばゴールに間に合う計算が出来た。

盛岡からはるばる友人が参加しているのをFacebookの情報で知っていたので、私がゴールにいた時に驚くだろう。面白い。
TJAR戦士の阪田選手、石田選手も参加している。
皆んなのゴールを見届けた後そのまま乗鞍に登るのもありだ。
そう決めたら三伏峠でシェルターを急いで撤収し鳥倉まで駆け下りた。


途中スーパーマルトで遅い朝食をとった。
マルトの外のベンチであの日の事を思い出しながら、一人ニヤけた。
幻想ながら仙波選手、米田選手が見える。
「 死んだかと思いましたよ 」
「 すごいべ 」
あの夏は本当良い想い出になっている。


乗鞍に着いたのは12:00。
駐車場に停め歩いていたら黒澤さんに会い感激の再会。
会えて良かった。
盛岡の人は本当いい人が多く安らぐ。

程なくゴール後でまったりしている阪田選手/石田選手と会い、結果について寸評を阪田選手のギャグ的内容で聞き大笑い。

照れ臭そうに女の子が写真を一緒に撮って欲しいとの事。
すごい清純で謙虚そうな方で好感が持てたので、阪田選手、石田選手も呼びTJAR選手で写真撮影に応じる。
こういう女性は個人的に好きだ。


もう乗鞍に登るのを忘れていた。
帰りは節約の為19号でひたすら下道。

メリハリがありすごく充実した2日間だった。
でも私の緩い登山/トレーニングはこれで終了。
19時でも日が暮れない空を見る。
もう充分遊んだから、切り替えないと。
二週間遊んだ自分に自身でラインを引いた。
少しの人しか見えない2018の夏がもう迫っていた。
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posted by 男澤ヒロキ at 22:39| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする